『暗愚小傳』初日あけました

2014年10月18日

 今日、無事、初日があきました。
 初日から、多くのお客様においでいただきました。ありがとうございます。
 公演はまだまだ続きます。毎日、当日券も発売されます。どうぞ、劇場に足をお運び下さい。

 明日、明後日の夜の回は、アフタートークもあります。明後日19日は、チラシなどに記載はありませんが、追加のアフタートークとなります。

今日のアフタートークでも話しましたが、この『暗愚小傳』という作品は、高村光太郎の生涯を、相当デフォルメした形で描いています。
高村光太郎の生涯は、自身が詩集の名前にもしているように、一つの『典型』でした(『典型』であるから、デフォルメもしやすいということもあります)。

・1883年東京生まれ。厳しい家庭の中で、芸術家になるように育てられる。
・15歳(1897年)で東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)入学、23歳でニューヨーク、ついでパリに遊学(これは、日本の芸術家としては、夏目漱石、滝廉太郎らに次ぐくらいの早い時期での留学になります)。
・三年後(1909年)に帰国し、日本の後進性を嘆き、デカダンスの生活を送る。
・長沼智恵子と出会い、のちに結婚。生活も改善。この頃、第一詩集『道程』を出版。
・芸術家として順調な生活を送るが、やがて智恵子が統合失調症を発症。1938年智恵子と死別。この頃から、急速に戦争を賛美するような詩を書き始める。
・1941年8月『智恵子抄』出版。詩人としての注目を浴びる(これ以前は、詩人としてはあまり有名ではなかった)。
・1945年、空襲で焼け出され、宮沢賢治の弟を頼って花巻に疎開。
・戦後、花巻で7年間の独居自炊の生活を送り、反省の日々を過ごす。

高村光太郎は、『暗愚小傳』の成立過程を語った『典型』(『暗愚小傳』ののちに出版)の序文で以下のような文章を書いています。

 ここに来てから、私は専ら自己の感情の整理に努め、又自己そのものの正体の形成素因を窮明しようとして、もう一度自分の生涯の精神史 を或る一面の 致命点摘発によって追及した。この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られていたかを見た。そして私の愚鈍 な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至って魂の戦慄をおぼえずにいられなかった。そして今自分が或る転 轍てんてつの 一段階にたどりついていることに気づいて、この五年間のみのり少なかった一連の詩作をまとめて置こうと思うに至った次第である。

『暗愚小傳』をはじめた書いた20歳のころ、私はこの、「特殊国の特殊な雰囲気」について、ずっと考えていたように思います。この『暗愚小傳』を書き終えて、私は韓国に留学し、その想いはさらに強くなります。と同時に、「特殊国」と言ってしまっていいのかという思いも募ります。改作された現在の『暗愚小傳』には、そのような思いが、幾層にもなって詰まっています。