フリッシュ公演時の宣伝文から

ラ・フリッシュ・ジャーナル序文~2002.5

ヌ・ドゥ・ネージュ(雪の結び目)は、不安定なバランスの上に成り立つ演劇での提示で、おそらくフランソワ=ミッシェル・プザンティのみが、このような形を着想できるのだ。2年前東京で、平田オリザの劇団の俳優と共に始められたこの作品は、我々の異質性について、共通言語を使って語っている。

12人の俳優、6人のフランス人と6人の日本人を想像してみよう。彼らは、あらゆる風の吹き抜ける闘技場に、共鳴音を響かせ不協和音を鳴らす箱の中に集まっている。駆け引きの行われる領域、舞台の中と外と袖の間に、決定的な境界はない。舞台の前方が観客にとって登場の場であるのに変わりはないが、その一方で、舞台裏は徐々に、構造を破壊する場へと変化していく。虚構と現実の間の快適な隠れ家はもはや存在しない。親密さの最後の砦が吹っ飛ぶ。フランソワ=ミッシェル・プザンティによって想像された舞台上の人物たちは、このように、逆説的な緊張の中で展開されていく。彼らは、根本的に異なっているが、にもかかわらず、集団性を再構築しようとする試み以外の代案を持っていない。そこで、フランソワ=ミッシェル・プザンティは、感情の結び目について語るのだ。現在の一瞬以外にはどんな重心も持たない、連続した“意識のドラマ”が、結び目を作り、ほどかれていく。そのとき構成されるのは、物語ではなく、行程と状況と関係とがびっしりと織り込まれた布だ。

あるムーブメントを始めるためには、常に問いかけから始めなければならない。ヌ・ドゥ・ネージュの作品づくりをスタートさせるために、フランソワ=ミッシェル・プザンティは出演者をミショーの詩作行為に対面させた。「どのようにすれば、演劇は、詩を翻訳する活動になりうるのか? ミショーは、別種の人間を、多次元的な人間を夢見ていました。時々は、危険を冒してまで、自ら体験することを望みました。彼は“私”を多元に組織し、そのことによって、私たちに、私たち自身の生活の貧弱なイメージを突きつけてきます。詩とは、私たちを生の爆発に連れ戻すものなのです」 日本人俳優の存在は?「俳優は私の最初の素材です。異国の俳優と仕事をするときには、この異質性もまた作品のテーマになるのです。とはいっても、フランス人俳優と日本人俳優の違いをかきたてるということではなく、彼らを、ミショーの描く栄光に包まれた身体に対決させるということです。」その他の記憶が混じり合う。ダンテ、セイロン、バロウズ.....。それからベケットの影にサドの笑い。しかし、ミショーがしばしば書くのを中断するため絵を描いたように、プザンティは、生身が発する音楽を聴かせるため言語表現を超えてしまう。俳優たちはこのようにして“彼らの身体の忘れられていた物語”を創っていくのだ。ただし、仕種はまったく振り付けられていない。ダンスではなく、常に演劇をする身体なのである。「瞬間が形成されるとき、身体はどのように働いているか。ミショーが“神経への降下”と名付けたものです」


ラ・フリッシュ・ジャーナル掲載
99年3月に行われたベルナール・アンドルー氏との対談からの抜粋

親密さ 親密さとは共有できるものです。あなたがおっしゃった以上のことは言えません。つまり:私の中にあなたの一部がいるということ。しばしば私は浴室の例を挙げます。粗野なドラマトゥルギー(劇作術)と私は呼んでいますが、これらの興味深いところは、浴室の親密さ、気の抜けた状態の身体をさらす親密さを生み出す点にあります。浴室はストッキングが股の間にぴったりとは貼りついてはいない場所、蛍光灯が肌の欠陥をあらわにする場所、社会的な身体への準備をする場所、そしてこの準備がまだ終わっていない場所です。浴室での人間関係には、連帯感を深め、欠点やよくできなかったこと、成し遂げられなかったこと、準備不足のものを互いに受け入れさせあう何かがあると思います。というのは、浴室の親密さとは、エロティックになりうる裸体の親密さとは違うからです。ある意味、私が演劇で興味を持っているのは、社会の浴室でありうるような場所を実際に作るということです。浴室、吹き出物を目にする場所、たるんだお腹を目にする場所、前兆の場所、前兆がはっきりと目に見える場所。喉の奥にできたデキモノを見たり、粘膜を観察したりする場所。浴室の中で形成されるのは、私たち自身の別のイメージです。

俳優 私が俳優に投げる質問は:あなたの知識は技術を伴うものですか?もし技術を伴うにしても、私の関心は、あなたがあなたの例外性について説明をするところにあります。あなたが舞台に現れるときの例外性とは何ですか? 私にとっては、まずそれはあなたの歴史です。あなたの歴史は、あなたの体の節々に描かれています。私はそれらの立てる音が、それらが挟まって動かなくなっている場所や、それらが広がっていく場所が、聞こえます。あなたの仕種とその発する音が、あなたの例外性なのです。で、あなたにとっては、あなたの仕種は、何を語っていますか? それは必ず、世界とのあなたの関係を語っています。では、舞台上に現れるとき、世界とのあなたの関係とはどのようなものですか? あなたは必然的に不法に舞台上にいるわけですから、どのように自分の存在を合法化しますか? どのような“生まれさせたいという意欲”で、あなたの存在を合法化しますか? この俳優に対する概念は確かに破壊的なもので、 彼らは“感じた”ことや“人生のように”演じることからかけ離れた想像作業を余儀なくされます。俳優はそれに耐えることができません、というのは、彼らは自分たち自身を「どうやって歩くのか?」と聞かれた百足のように感じるからです。しかしこの概念は、たとえ俳優の演技のいくつかのエッセンスを損なうことになったとしても、現代のアーティストが自らに問う問いに類似しています。特に造形芸術の分野でのアーティストは社会から常にこの質問を投げかけられ、社会的なユートピアや民俗学的な視点の扇動者であると同時に、自らの造形物のプロデューサーであることを求められています。

現在とは存在でもある 私は作品のなかで、過去の題材を操ると同時に、この操作を現時点で実行するように要求します。つまり、俳優は上演の間、ある狙いを持って、何か、とりわけ稽古で構成された題材を出現させようと企てるわけです。彼の芸術プランが“自然”に進むのを阻むのは、私の側の、現在・今ここで・今夜、という事に対する強要です。ええ、私は仕事をするうえで常にこのことに固執していますし、この考えは今後も変わらないでしょう。上演作品は、今まさに作られている、というふうに観られなければいけません。このことが俳優にとって危険な実践で、新しい実践を行えば行うほど危険になる、ということに関して、私は疑いを持ちません。俳優がそこから身を守ろうとするこの危険こそが、彼独自の奏でる詩に応じて、彼を“存在”させるのです、時々は神々しいまでに。 (...)私は、オレスティーの初演時、三幕目でユメニッドとエリニーが舞台に登場したときの証言がつねに気になっていました。アテネの人々は、復讐の女神が自分たちの目の前で具象化されるのを観るのにおびえていたと聞きます。彼らの芝居は、今日の私たちの目には非常に様式的に映るであろうことは想像できるでしょう。しかし、女性は劇場の中で早産し、男性は客席から逃げ出したのだそうです。私はこの逸話を真実だと信じていますが、関連して、マルセイユでルミエール兄弟が“チオタ駅への列車の到着”の最初の上映を行ったときの事件も思い浮かべます。そのときのイメージは、貧しく、欠陥だらけで、白黒で、シーツの上に投影されたものだったことでしょう。しかし、人々は、蒸気機関車が近づいてくるところで、部屋から逃げ出したのです。この2つの逸話の中には、パニックの突然の出現と、想像上のものから産み出される力は確かにあるということ、が示されていると思います。


翻訳:齋藤千佳子

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